余分だったり省きすぎだったり

 むかし同じ職場に、「そもそも論としてやねぇ…」ていう口癖*1の人がいて、それを聞く度に(それ、ただの「そもそもやねぇ…」でいいんちゃう?)と内心思っていた私である。

 似たような例として、「方法論」とか「関係性」とかいう言葉をむやみに使う人がいて、たいていの場合(そこは、ただの「方法」「関係」でいいんちゃう?)と内心ツッコミを入れてしまう私である。
 もちろんその言葉じたいは両方とも、ある特定の文脈・場面でどうしても必要なタームとして創出されたんであろうとは推測するんだけど、特に「関係性」のほうは、書き言葉ならともかく会話の中でこれを言い出す人がいてもほぼ例外なく(そこは、ただの「関係」でいいんちゃう?)と思ってしまうような使い方であり、そもそも(笑)いったいどういう場面で使われたらピタッと来るのか、いまもって実感したためしがない。哲学用語辞典とか社会学用語辞典とかを見たら分かるんですかねぇ、「関係性」って言葉の素性は。(と言いつつ調べてみたことがない)


 反対に、(それ、省きすぎと違う?)と思う言いまわしで最近ときどき気になるのが、「現状」。
たとえば

現状、私たち入社5年目ぐらいのメンバーが中心になっています。

↑こんな感じで。
 (「現状を説明しますと、」「現状から判断する限り、」あるいはせめて「現状では、」と言ったらどうかね?)と言いたくなるような、条件節みたい(?)な役割を、「現状」というただの名詞ひとりにやらせてしまっているのを見かけることがある。ホワイトボードの置いてある会議室のテーブル上を飛び交うだけのジャーゴンというか“オトナ語”ならまだ仕方ないのだが、ブログといえども一般の書き言葉でこれを読むと、少々苛立ちを感じる。しかしこれを普通だと思っている若い衆はかなり増殖しているような気がする*2。あいかわらず根拠は無いけど。

*1:まぁ本人も100%マジではなくわざと冗談ぽく言ってる感じもありましたが

*2:常考」(=「常識で考えて」)っていうのは、もちろん皆わかっていてワザと使っているのだろうけど、ほんとにそういう言葉がある、もともとあったと信じてしまう者もそろそろ出てきそう。