逃げるなら今

 ごぶさたしました。けっこう読むのに時間がかかってしまい、読字力の衰えに心も沈みっぱなし…


小松左京日本沈没(上・下)』(小学館文庫)読了。

日本沈没 上 (小学館文庫 こ 11-1)

日本沈没 上 (小学館文庫 こ 11-1)

日本沈没 下 (小学館文庫 こ 11-2)

日本沈没 下 (小学館文庫 こ 11-2)

 この作品が「近未来小説」として書かれてからもう40年近くなるけれど、現実が小説を追い越したということもなく、この作品は40年間ずっと現実のうしろ側にぴったり貼りついて、「常にある可能性」として存在し続けてたんだなぁと感じた。197x年の出来事として描かれた本作と現実の今とで大きく異なる点と言えば、「ネットが未だ存在せず」「東西冷戦」「太平洋戦争経験世代が社会の中心に居ること」、そのぐらいかな。たとえ国土は失っても、日本民族とその文化はどこかでなんとかして生き延びさせようという必死の努力がなされるのは、この3つめの条件に負うところ大かもしれず、今ならそんな執着すらないまま〈日本〉なるものは雲散霧消していくのではないか。



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 1〜2年のうちに日本列島が消滅すると判って、国民を他国へ移す計画が秘かに進められるというくだりで、政府の派遣した密使がオーストラリアの首相に面会し移民受け入れを要請する場面を読んだすぐ後で、たまたまガメ・オベールさんのブログ

オークランドの友人と話してみると、ニュージーランドでも日本からの移住希望者が目白押し、というか、びっくりするほど増えて、観光客は激減したのに不思議なことである、とゆーておった。
(略)
役人衆や実業界の衆が群れをなして日本から財産を脱出させつつある最近の傾向(オークランドの投資コンサルタント談)を見ても、どーも、やばいみたいね、と思います。

というお話を読んで、あーやっぱり今まさに現実になっとる…とまざまざと見せつけられた気分。この小説のいう「沈没」とは違う意味で日本が沈没しつつあることを、知ってる人は知ってるし、逃げ出せる人はもう逃げ出しはじめてるわけだ。

(...)自分の力で逃げ出せるチャンスにめぐまれたものは、一人でも多く、逃げ出すことが、この場合かえって日本のためだ……それだけ国にかける負担が少なくなるし−−日本人が一人でも多く、この地球上に生きのびられるわけだ。 (第五章「沈み行く国」)


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 これもたまたまつい先日ホソカワさんが映画版(古いほう)の感想を書いておられて:

 ここで指摘されている“すっきりしない”点はそのまま原作を読んだ感じでもあてはまるので、かえって「原作に忠実な映画化なんだな」という気がする。
 谷甲州氏との共作で発表された『日本沈没 第二部』というのは、なんだか後付けの企画みたいに思っていて、さいしょは読むかどうか迷っていた。しかし、本作の末尾に「第一部 完」と記されているとおり、当初から第二部は書かれる計画であったそうだし、なんといっても国土を失って世界各地へ離散していった日本民族のその後が描かれているのならば、続きを読んで確かめなければ…という気がしてきた。


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 ところで、本作のなかには《大阪湾上の関西第二国際空港》《神戸港沖合の、(...)関西新国際空港拡張用の埋立地》という表現が出てくる。この「関西第二国際空港」と「関西新国際空港」はたぶん同じ物だとして、作品中では現在の泉州沖にある関空とは異なる場所に新空港が建設されていることになる。じっさいにこの作品の書かれた当時は新空港問題はどうなっていたのかと疑問に思って、神戸空港 - Wikipediaを見たところ:

具体的な神戸沖空港建設の計画は、1969年5月に当時の運輸省の関西新空港構想に始まっている。この構想では、関西新空港予定地は神戸沖の他にも、播磨灘、淡路島、泉州沖が想定されていたが、大都市圏からのアクセスの利便性により神戸沖が有力とみられていた。
一方1972年当時は、大阪国際空港の騒音が裁判にもなり、また公害反対を強く主張する革新勢力に力があった時代でもあったことから、神戸市会は神戸沖空港反対決議を賛成多数で可決。翌年の市長選挙では空港問題が争点となり、当時の宮崎辰雄市長も神戸沖空港の反対を表明して空港推進派が推す対立候補を退けて再選された。そのためもあり、翌年の答申は泉州沖となった。

となっており、1973年に出版された『日本沈没』の執筆当時は、ちょうど新空港建設地として泉州案と神戸案が未だ拮抗しているような時期だったと読める(追加リンク:関西三空港の経緯と現状 - Wikipedia

 いずれにせよ、作品中においても現実においても、伊丹に次ぐ新空港は海上に作られたわけである。しかし第六章の冒頭で、徐々に沈下しつつあるが未だ「大破滅」前の近畿地方の避難状況として

 浸水のはげしい新空港にかわって、ふたたび主役にかえり咲いた伊丹空港は、万国博の時以上の狂気のような突貫作業で、ようやく(略)地震で損傷を受けた滑走路や地上誘導施設の整備を終わり、(略)閉鎖されたローカル空港の整備員や地上作業員を西日本からかり集め、(略)二十四時間操業、一日の発着回数五百回(略)極東米軍の輸送部隊の援助もうけて、空路では、一カ月に五十万人近い人間を空輸するという記録をたてていた。

という記述がある。やっぱり伊丹は置いといたほうが良いんじゃない?>ハシゲ知事