ランタンが照らす場所で

 リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』(河出文庫) 読了。



 西瓜を煮詰めて採った西瓜糖で家や橋や、さまざまなものが作られているところ。やさしい香りの西瓜鱒油で灯すランタンに照らされた場所。約375人の人が暮らすという、そんな不思議な西瓜糖の世界で暮らす「わたし」が語る物語。《あなたにそのことを話してあげよう。わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。》

 最初、「わたし」はこれから自分が書く本について確固たる計画があるらしく、内容を箇条書きにして示している。そこにはマーガレットのことも含まれているが、じっさいにこの本が終わるまでにマーガレットの身に起きてしまう事は、たぶん予定に入っていなかったんだろう。


 〈忘れられた世界〉のイメージは一見、(たとえば核戦争で)滅びて放棄された世界のそれを思わせる。しかし、じつはアイデスをめぐって静かに生き続けられている、「わたしたち」の西瓜糖世界こそが、うち捨てられ終わってしまった世界のように思えてくる。
 マーガレットやインボイルの一味は、他の誰も足を踏み入れたがらない〈忘れられた世界〉に通い続ける。そしていろんなものを掘り出してくるが、「わたし」たちにはもうそれが何なのか《わからない、全然わからない》。わからなくなってしまったのは、「わたしたち」のほうから何かがごっそり抜け落ちたからに違いない。「虎」を殺してしまって以後の、この世界の死にも似た静けさから脱出しようとして、〈忘れられた世界〉との境界線上で苦悶し続けたのがインボイルたちのように思える。そして、橋のたった一枚だけ音を立てる板を必ず踏んでしまう、西瓜糖世界の静寂をかき乱さずにいられなかったマーガレットも。


 〈忘れられた世界〉の本は、焚きつけにされたらしい。

「〈忘れられた世界〉の本にあるみたいな、ロマンスなの?」
「ちがう」とわたしはいった。「ああいう本とはちがう」
「あたしが子供だった頃ね」とかの女はいった。「そういう本を燃料にしたのよ。すごくたくさんあった。火持ちがよくてね。でも、もうそんなにたくさんは残っていないわ」

 彼らはちゃんと〈忘れられた世界〉の本も読んでるのだ。でもそれも燃やしてしまったし、《もう長いこと、ここで本を書いた人はいない》。なのに皆、本に対して特別な思いを持ち続けているようでもある。

 この世界では、この171年間に23冊の本が書かれ、最後の本が書かれたのは35年前のことだ。その最後の一冊を書いたのも、「わたし」と同じように、《きまった名前がな》い人だった。「わたし」はここの人々の中でも、少し変わり種なのだ。いろんな人が「わたし」に本の中身や執筆の進み具合をたずねる。みんなが、来るべき書物をまるで何か運命のように待ち受けているかに見える(何しろ、虎たちがいなくなってから初めて書かれる本なのだ)。ひょっとしたらそこで何もかもが明らかにされることを期待しているみたいに。でも、「わたし」の物語も全てを明らかにはしてくれない。

 遠くにいる「あなた」へ明確に向けられ、《なにもかも、西瓜糖の言葉で話してあげることになるだろう》と余裕たっぷりに語り始められた物語は、最後には計画からはみ出したようだ。自殺したマーガレットの葬儀のあと、ダンスの集まりで《楽士たちは楽器を手にして、位置についていた。もう、いつでも弾ける、もう間もなくだ__とわたしは書いた。》と何かにぶつかったみたいに唐突に締めくくられる*1。物語に追い越されそうになって大急ぎで終わるみたいに。


 言葉を話す虎とはいったい何だったのか、とか、美しい子供の顔をかたどったランタンとか、いっぱいある彫像はなぜなのか、「堂々たる長老鱒」はマーガレットが次に墓に入ることになるのを知っていたのか、とか解読したくなる謎はいっぱい残る。
 そして、多くの読者が思うように私もMラカミハルキの「世界の終わり」を連想せずには居られなかったのだけど、あの小説にはそういう「解読」を求めるような感じを全く受けなかったのを、今ごろになって意外に思う。両者が似ているのは、たぶんどちらも神話だからだという気がする。

*1:ここで金井美恵子の『噂の娘』のエンディングをちょいと連想