あぢあぢあぢ

清水克行『日本神判史』 (中公新書) 読了。図書館本。

日本神判史 (中公新書)

日本神判史 (中公新書)

 夕刊をとりに玄関を出て郵便受けを開けるだけでも、“鉄火起請”なみの覚悟を決めなければならないここ数日ですが、みなさんお変わりありませんか。


 というわけで、盗難などの犯人捜しや土地の境界争いの決着のために、神仏に誓いを立てたうえで「熱湯に手を突っこむ」あるいは「真っ赤に灼けた鉄片を握る」などして、火傷しなかった(軽かった)者の言い分が正しかったことにする、という聞くだに恐ろしいジャッジメントの慣習について論じた本。もちろん私は、お下劣なホラー趣味に駆られて手に取ったのだが、たいへん読みやすくエピソード豊富な本で、面白かった。


 盟神探湯(くがたち)という言葉は、たしか社会科か歴史の教科書で習ったような記憶があるが、その名称からしていかにも古代の風習(だからどこまでほんとにあった話か怪しい)と思っていたのに、似たような、そして考えようによっては更に苛烈の度を増した鉄火起請なんていう方法が、17世紀半ばまで実際に行われていたというのには少々驚いた。現代人が考えるような、物証とか合理的な推論が尊重されたり、近代的な法体制や権力のしくみが成立してしっかりした位置を占めるようになる前の不安定な時期に、一時的に隆盛を取り戻したのだと著者はいう。


 もちろんその頃には既に多くの人が「そんな方法で神さま仏さまが真実をお示しになったりするはずがない」と、うすうすながらでも考えていたと思うが、(土地の境界争いなど)どっちがどっちとも決めようがないことに決着をつけざるを得ない場合に、申し訳の立つ方法として採用されていたのだろう。反面、共同体内で起きた事件が犯人不明のままになることで、共同体自身が不安定になることを恐れるあまり、「とにかく誰かを犯人であることにしてひと安心したい(それが真犯人であるか否かはわりとどうでもよい)」という心理がこの制度を欲したという点は、現在でも冤罪を生む心理と変わらない。不合理とわかっていながら暗黙の合意によって、このように残酷な方法が肯定されていたことは、おぼえておいて悪くないと思った。


 ***もっとちゃんとした中身の紹介は、kingさんのこちらの記事を読ませてもらって下さい(と他人のエントリで相撲を取る)>>http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20100618/p1