老いのなかで もがく

 これまで私は「心のきれいな人」を、だからといって好きになったことは無かったと思う。というより、そもそも「心のきれいな人」というのはあまり私の好きなタイプじゃない。

 ふとしたはずみで見た、ある人の「心のきれいさ」(と私が信じた、もしかしたら別の何かに過ぎないかもしれないもの)に、この数か月とらわれ揺さぶられ続けて*1みて、いま思うのは、これはやっぱり自分が年をとったからなのではないかしらと。


 前にもどこかで書いたかもしれないけど、私はモーツァルトの音楽が全然好きではない。「あの良さがわからないとは不幸」とか言われてもフンッとしか思えないし、「この世の汚辱にまみれ疲れ切ったオトナにこそモーツァルトの至純の音楽が沁みる」的な評言を読んで、じゃあそんなものは死ぬまでわからなくて結構!とつねづね思っているのだけど、これまで何ら私の気持ちを動かすことなどなかった、「ひとの心のきれいさ」に、まるで魂を掴まれた(←通俗表現)ようになってしまった自分を観察していると、なんかそれに近いことが起こったのだろうかという気がしてしまうのだ。あーいやだいやだ。

 
 しかしもうひとつ冷静に考えてみるなら、この眩暈のような感覚は、単に「ひとの心のきれいさを察知し新鮮な感動を覚えることのできる未だしなやかで鋭敏でみずみずしい感受性をそなえたワタシ」に対する激しい自己陶酔に過ぎないのかもしれない。それならまだ望みはある、老いて弱って感動しやすくなるよりは、ただ卑しくて傲慢なナルシストでいつづけたい…

*1:ただし、依然として、「心のきれいな人」が「好き」になったわけではないはず