春を食べてみた

亡父の誕生日に、もうだいぶ過ぎてしまったけど自分の誕生日の合同お祝い(?)ということで、一度食べてみたかった「神﨑屋」さんの筍料理づくし"竹林倭人"。クール宅配便で送ってもらえるやつ。f:id:nigellanoire:20180420181749j:plain
おつくり風、木の芽和えも美味しかったし、焼き筍がとても風味が良かった。タケノコ以外の、麩田楽や菜の花、椎茸も味付けがちょうどいい感じで満足。
今度は秋に、松茸のセットも食べたい…

www.kanzakiya.co.jp

「所収」の使い方

twitter貼り付け練習を兼ねて書いてみた)


 

 


 ひとつめのツイートの画像を見ると、帯に《三作品を完全版で所収》とある。
 まえまえから、「所収」の使われ方に疑問を感じることはたまにあり、かといってどの用法が正しいのか、大ざっぱに辞書を見たり検索したりしただけではいまひとつ決定打に出会えていない。あくまでも、自分の日本語人生に於ける経験の蓄積からそう感じるだけなのだが…

 そう思いながら見つけたふたつめのツイート、これに対する返信にさらに続いて、元ツイート主の吉田寛さんが、
https://twitter.com/H_YOSHIDA_1973/status/287208698445709312

「収録」とは違って「所収」は動詞では使わない、というのが私の認識(違和感)

と書いておられるのもだいたい私の感覚に近い。


 「所収」という言葉のよくある使われかたとして、出典表記なんかで

  • 「短編A」(『作品集B』所収)

というのがあると思う。この場合、意味するのは

  • 『作品集B』が収めるところの「短編A」 ("story A" which "book B" contains ←英語、これで合ってるかしら。関係節というのか?)

ではないのだろうか。私は少なくともそう思ってきたんだけど。ていうか、この「所」ってナニ?

 最初に戻ると、画像の書籍に付いている帯の宣伝文は、《三作品を完全版で収録》でいいはずだし、なぜ《所収》にするんだろうと思ってしまう。

物欲からはじめる新春

(ひさしぶりすぎて、はてなブログの更新のしかたもあやふやなままなので、練習も兼ねて投稿…)
 
前々から気になっていた、合衆国オレゴン州ポートランドの本屋さん、Powell'sのグッズを年末にポチりました。
クリスマスシーズンをはさんだせいもあってか、予想よりは少し時間が掛かりましたが無事到着。

f:id:nigellanoire:20180104130330j:plain


Tシャツを着る季節が待ち遠しくなる可愛さ。
しかしSci-Fi ウォーターボトルはうっかり想定外のデカさだったので、どういう機会に使えばいいのか悩んでしまいそう。ちなみに暗いところで光るそうです(まだ試してない)。目盛りについている作家名の中には知らない名前も幾つかあるので、やっぱり私はとうていSF読者とは言えない。

f:id:nigellanoire:20180104130854j:plain


オンラインショッピングの罠にはまった感が少々ありますが、反省しつつ今年もポチッ…いやぼちぼち生きていきます。

朝顔の近況

ことしの夏、国立歴史民俗博物館からもらった朝顔4品種(うち1品種は発芽せず)の種を播いたところ、思わぬ結果が生じている。

f:id:nigellanoire:20170816064553j:plain

f:id:nigellanoire:20170816064640j:plain

f:id:nigellanoire:20170816064525j:plain

発芽率というか歩留まりを悲観的に見積もりすぎたらしい。1品種につき5粒ほどの種を、どうせ生き残るのはよくて1,2本だろう…と1つの鉢に播いた結果、ほぼ全てが元気にスクスク発芽&伸長し、隣り合う鉢にまで触手を延ばす恐るべきジャングル状態に…写真が寄りぎみなのは、全体像がとてもお見せできるようなさまではないからなのです。

 

なかでも気の毒なのは、画像3枚目の“青蜻蛉”である。画像左下隅に写っている鮮やかなブルーの花は、勝手に混じり込んでいた他のおそらく西洋アサガオ(?)。こいつのほうが勢いが強く、激しく絡み合って死闘を繰りひろげた挙げ句、本来の“青蜻蛉”と思われる右側の淡藤色の花のほうは押され気味。

 

↓これが実情

f:id:nigellanoire:20170816064532j:plain

 

だいたい私自身はお花の世話をしたことがない。そのうえ今年はこのヒトたちの鉢に支柱を立てた直後くらいから頸椎の具合が悪くなり、ひどい神経痛で日常動作も辛いという日々が2ヵ月以上続いてしまって、とてもアサガオ観察日記をつける(というよりそもそも庭に眼を向ける)余裕がなかった。結局、水やりなどほとんどが母の負担となってしまって、年寄りには申しわけないことだった。アサガオくらい簡単に育てられるだろうと甘く見た自分を少し反省。

 

夏が盛りを過ぎようとする気配が感じられるこの頃になって、ようやく身体のぐあいも良くなって来て、懸案だった〈はてなダイアリーからはてなブログへの移行〉という大事業にも手をつけることができるようになった。庭へ出て、狂ったように繁茂している朝顔のみなさんに「すまんね」と完全放置を詫びる。もしも種が採れたら、来年はもっとゆったりした植え付けで、美しく咲けるようにしてあげたい。

 

これが、はてなブログへ直接投稿する最初の記事。まだまだ使い方がよく判らない。転勤とか配置換えとかって、こんな感じ? これも少しずつ勉強する。

 

早く涼しくなってほしい。充実した秋にしたい。

 

 

何ものかを怖れて

 病気してからこの約2年、規則正しく早寝早起きするようになってぐっすり眠るせいか、とんと夢を見なくなっていた。
 ところが、ここしばらく整形外科系の不調につきちょっと不規則にゴロゴロすることが増えた。二度寝、というか、休日の朝など、一旦起きて朝ごはんを食べたあと、もう少し横になるか…とやった結果、いわく言いがたい悪夢?を立て続けにみることになった。

 なかでも印象に残った2つが、どちらもざっくり要約すれば《若い女に侵入される》ストーリーだったのは、いったい何を指し示しているのだろう?
 どちらもこれまたざっくりまとめれば《水のそば》での出来事だったのは、これは単純に、トイレに行きたいと思いながら見た夢だったからなんだろうけど(笑)。

 ひとつめは、落水荘みたいな変な構造の別荘かなにかの勝手口に面した水路を越えて、女子高生ふうの集団が入ろうとしてノックしてくるのを必死でドアを押さえて居留守を使おうとしている夢。
 ふたつめは、どこかのビルのアールデコ調の洗面所みたいなところの鏡の前で、若い女が「服を直してあげましょう」と言って、襟から手を入れてどんどん下着の方まで手を伸ばしてくるのを、後から入ってきた別の女が「早く離れたほうがいいですよ!」と助け出してくれる夢。

 どちらもけっこう怖かったんだけど、いったい私は何を考えていたんだろう…

あなたは倒れないで


ダニエル・オーフリ『医師の感情』読了。

医師の感情: 「平静の心」がゆれるとき

医師の感情: 「平静の心」がゆれるとき


【20170306追記】
訳者による紹介文が掲載されていました。

『医師の感情―「平静の心」がゆれるとき』書籍紹介 心に悩みを抱える医師へ〜『医師の感情』翻訳に込めた想い
【エピロギ】 http://epilogi.dr-10.com/articles/2036/

 衝動的に購入してしまったものの、このシンプルな書題と装幀、帯の"ルポルタージュ"という言葉から、「これこれの調査に対し、医師の○○パーセントが××と回答している」のような、無味乾燥な内容かも…と読む前にもうガッカリしかけていたのだが、予想に反してこれはひじょうに生き生きとして面白いエッセイだった。
 
 【余談】いま、無料BS放送のD-Lifeで『ER 緊急救命室』を連日放映している。昔、NHK-BSで放映されたときにもちろん観ているのだが、あのとき初回から欠かさず観たという自信はなかったので、今回ぜひ第1シーズンからみなおしてみようと毎日楽しみにしている。現在もう第3シーズン。で、やっぱり第1シーズンの初めのほうは確実に「これはみていなかった」「記憶にない」と思ったのだけど、「これは途中から出てきたキャラ」と前から自分が認識していた(=つまり、その人物が初登場した回の時点では既に自分は番組を観ていたはず)のDr.キートンやDr.ガントが出てきているのに、まだストーリーや内容に「これは昔みた」という確信が持てない。それだけ、昔みたはずのお話をすっかり忘れているというわけ。どうなっているのか私の頭、私の過去。


 さて、『医師の感情』の著者Dr.オーフリ(ダニエルというお名前はカタカナだとどちらか分からないけれど、女性です)が長らく働いている病院も、あまり裕福でない患者がどんどん運び込まれてくるような公立病院なので、あのドラマに出てくるカウンティ総合病院におそらく似た環境だったと思われ、書かれているエピソードの幾つかは、まさに「読む『ER』」という感じ。自身が経験した大小の失敗、恥辱や失望や後悔も率直に描かれる。もし著者が男性だったら、自らの「感情」をこれだけ素直に書けるかしら(認めるという意味でも描写力という意味でも)、という気もちょっとした。

続きを読む