豊饒な行き止まり

津原泰水『ペニス』(双葉文庫) ほんまに気持ち悪くなりかけながら何とか読了。

 本を読んで、吐き気で胃袋が収縮するのを感じたのは初めてだ。ついでながら、双葉文庫の装幀(表紙と見返しの色、カバーの背、奥付やノンブルの字体など)はすっきりしていて美しいですね。


 私が初めて読んだ津原泰水に関する文章は津原さん自身の手になるものだった。単行本『蘆屋家の崩壊』が出版された時に、PR誌「青春と読書」に津原さんが書いた文章だ。パーティーで皆川博子さんと出会うシーンは、読んでいるこちらまでうっとりと幸福感に浸してくれる。この一文を読むまで、津原泰水について何も知らなかったことは、私に偶然あたえられたちょっとした贅沢。


 津原泰水の文章は、陳腐さや凡庸さ、拙さや不自然さ、無理やりだとか苦しまぎれなところ、すべてをまぬがれて完璧な文章だ。これは事実ではなくて、催眠術のなせるわざである。

 津原泰水の文章には、巧妙な催眠術師の呪文の如く、強烈な暗示力が備わっている。ほんの1,2行読み始めたところで、もう津原さんの書いた言葉、打った句読点のその通りに呼吸させられている。津原さんが自在に伸縮させ繋ぎかえる時間を、そのまま生きさせられる。まるで津原さんの思い通りのリズムで踊らされるみたいに、ぐっと身体を掴まれて、そのまま悪い夢の中を連れ回される気分。・・と思っていたら、作中で語り手が人を追いかけながらそのリズムをチャイコフスキーのピアノ協奏曲に同期させようと試みる場面があり、二重に呼吸を制御されているようでなんとも不思議な感じだった。
 ところでチャイコフスキーといえば、以前知り合いからこんな話を聞かされたことがある。曰く、チャイコフスキーというのは音楽史にとって不要な作曲家である。なぜならチャイコフスキーの影響を受けた作曲家というものはおらず、だから音楽史上からチャイコフスキーが消滅しても、後世に何の影響も及ぼさず音楽史に於いて何も失われないから。・・というような説だったと記憶してる。その時私の頭に浮かんだことは2点で、1つめは「いや、それならばなおのこと、チャイコフスキーを是が非でも保存しなくてはならないのでは?替えが利かないんだし」ということで、2つめは「いかにも男が考えつきそうな理屈だな」ということだった。
 今考えてみると、音楽史に於いてチャイコフスキーが後世に対して何の影響力も残さなかった(という説が当たっているのかは私には不明)ということは、すなわち子をなさなかったとも言い換えられる。『ペニス』で語り手が書いてしまった「卵の化石」のような小説は、進化の袋小路(?笑)のようなチャイコフスキーの作品そのものだ。私の知り合いが展開した説は、純粋に音楽史の考え方として妥当かはともかく、チャイコフスキーという人物のうちに(個人としても音楽家としても)深く存する「不毛」というか「不妊」というか「不能」というか、とにかくそういう性質を見抜いた上での、ひとつの“言い方”だったのかもしれないと、この小説をたまたま読んだ今日になってそう思ってみる。それにしても、いかにも男が考えつきそうな理屈である。


 終わりのほうでかなり唐突な感じにフローベールの《サラムボー》が言及される。そういえば、角川文庫のリバイバルで出た時に買った、金色のケースに入った2巻組のフロベール『サランボオ』。カバーこそ新しかったものの版が昔のままで、すり切れたような古い活字が読みづらくてそのまま放置していた。けれどこれは「読め」という津原指令なのだろうから、いずれ読まなくては。そして読み終わる頃には、「供犠としての子供」がきっかけ(というか、つなぎ目)であったことなど、私はきれいさっぱり忘れているだろう。
 斯くして、『ペニス』は不毛のままあり得ない子供を産み、閉じたはずなのに思いがけない方向へ破れだして、私を連れ出す。