読み納め

大森望『現代SF1500冊 乱闘編 1975〜1995』(太田出版) 読了。


 ブックガイドばかり読んで、かんじんのブックが全然読めない(入門だけして安心してしまうタイプの)私。でもつい読みたくなってしまいます。巻末の詳細な年表なんか見ると、もう手元に備えておきたくて・・・という病。

 まえがきのところに、

三十代以上の読者は「こんなSFも出てたなあ」と昔を懐かしみながら、二十代以下の読者は「へえ、そんな時代があったんだ」と時間遡行しながらぱらぱら拾い読みして楽しんでいただければさいわいです。

とあるが、私は大森氏とほぼ同世代ではあるもののSF読者ではなかったので「懐かしむ」とはいかず、せいぜい「あぁそうだったのか」程度。若くないので「よーし、これからモリモリ読むぞ」気分にもなれず、例によってハンパ者の悲哀がこみ上げるのであった。
 本書冒頭には、『小説奇想天外』1990年2月号に掲載された文章を原型とする「十分でわかる翻訳SF出版史 1975-1989」が置かれている。その中で、

八十年代に出版量が激増した結果、過去に翻訳されたSF作品のフォローがきわめてむずかしくなっている。(...)今年(一九八九年)から海外SFファンになった若者が過去のSFを勉強しようと思えば(...)どだい不可能である

として、必読書の多さとそれに反比例して昔の出版物がどんどん入手困難になっていくことにより、すでにSFマニアといえども世代が違えば同じ共通了解は持てなくなってきた状況が説明されている。まして2005年の現在、それも視力も脳も衰弱著しい身としては、ここに示された20年の堆積の重みにため息が出るのみ。「追いつく」などとは考えもしない、とはいえ、この中から何冊かはいずれ読む機会があればいいなーと思う。
 続編『現代SF1500冊 回天編 1996〜2005』もぜひ読むつもり。というか、過去の名作に「追いつく」ことを諦めたのなら、こちらのほうが私にとっては実際的なガイドかもしれない。


 いま思えば、大森望という名前に親しんだのは、本書に収録されている『本の雑誌』連載の「新刊めったくたガイド」で毎号見かけたからのような気がする。それともカバーの美しさに惹かれて買った『エンジン・サマー』の翻訳者として知ったのが先かな?
 筆者も本書の中で書いているように、この「新刊めったくたガイド」では、ふつうSFとは呼ばれないような作品も紹介されていたので、私にとっては「大森望=SFの人」という認識がわりと最近まで無く、むしろ海外文学紹介者というふうに思っていた。それもあって、守備範囲の広い大森氏の書評になんとなく信頼感を持ってきたと思う(SF専門評論家だったら信頼できないというつもりではない)。


 その、わたくしがご信頼申し上げる大森氏がですね、1995年に京極夏彦魍魎の匣』を5つ星大絶賛するにあたり、

去年あれだけ評判になったデビュー作『姑獲鳥の夏』がいまいちピンと来なかった

と書いておられるのを読んで、実は少しホッとしたのだった。
 というのは、大流行り物にはあまり手を出さない私もたまに気弱になることがあり、『姑獲鳥の夏』が文庫化された時(98年)に「そんなに面白いのなら・・・」と読んでみたのだけど、とても味気なくてガッカリしたのだ(それ以来、他の京極作品も読んだことは無い)。そして今年、映画版が公開されたことでまた記憶がよみがえり、京極作品群が以前にもまして不動の評価を得ていることも思い合わせ、「あれが面白くなかった自分が変なのでは?」とまたもや気弱になり、再び『姑獲鳥の夏』を手に取ったのであった。しかし再読してもけっきょく感想は変わらず。スルスルとは読めるものの、わざとらしくて味気なくて、美味な部分が全くない読書にしかならなかった。
 もちろん大森氏の言わんとしているのは、

ということであって、氏の「いまいちピンと来なかった」は私とは別モノなのだろうが、なんだか心強い(笑)のであった。でもだからといって私はまたも懲りずに『魍魎の匣』を読むだろうか?なんとも言えない・・・


 というわけで2005年の読み納めでした。ついでに借りてきた小谷真理さんの2冊を読みつつ、新年を迎えることにします。どちらさまも良いお年を。