青い昼と赤い昼が過ぎて

スタニスワフ・レムソラリス』(訳:沼野充義/国書刊行会) 読了。



 タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』は、むか〜し観たんだけど、バッハの曲*1がやけに耳についたというのが唯一の記憶(--;)ゞ。でもそれが似合う映画だったという感触も残っている。今回初めて読んだ原作には、バッハが聞こえてきそうな箇所は余り無かった。どこまでも「人間」と共にあるバッハの音楽。それに対し小説のほうは、きわめて人間らしい一人称で語られながらも無機質で、絶望することすら人間臭すぎて許されないような雰囲気。 
 作者自身は、故郷や家族につなげてしまったタルコフスキー版、ラヴ・ロマンス中心のソダーバーグ版どちらもかなり不満だったそうだが、そりゃそうでしょうねという気はした。


 訳者が巻末解説で《タルコフスキーが限りない「懐かしさの人」であるのに対して、レムは「違和感の人」》であると指摘しているのを読むと、懐かしさこそ我が命である私自身は、断然タルコフスキー派だと思うので映画をぜひ再鑑賞せねばと思うけれど、本音を言えばこの作品を敢えて映画にするのならば、まず「海」の映像化にほぼ全力を挙げて欲しいという気がする。あれだけ執拗に描写される、海が絶え間なく繰り返す生成と破壊のさま、そして青と赤の太陽に染め上げられる空と水平線と海面の変幻を、仮に120分映画なら40分ぐらいはひたすらそれのみ映し続けて欲しいものである(音楽はどうしよう?)。タルの時代には技術的に無理だったいろんな表現も、CG時代のソダには出来ただろうと思うのだが、ソダ版で果たして「海」はどのように描かれていたのか、(芳しくない評判ばかり聞こえてきて)あまり触れられているのを見た憶えがないのだが・・・
 それと、「ソラリス学」の歴史、数十年にわたって書き継がれた膨大な書物群(が並ぶ図書室)もたっぷり視覚化してほしいところ。「ソラリス学者たち」「小アポクリファ」「思想家たち」などの章で繰り返し語られる架空の書物や論争に関する詳細な描写をたどる楽しさは、ずっと敬遠していた『完全な真空』や『虚数』も面白いかも知れないと考え直させてくれた。ここに力を入れないと原作が泣きそう。


 翻って、ケルヴィンとハリーの「愛の物語」という側面には、残念ながらほとんど気持ちを惹きつけられることがなかった*2。むしろ、他のステーション要員、サルトリウスやスナウトに訪れた者たちは何だったのか、はっきり描かれないことのゴシック的な怖さが心にひっかかって、結構さいごまで重みを持ち続けた。そう、特に前半は読んでいる間の感じとしてはまっとうなホラー小説(読み始める前は難解で退屈ではと心配だったのにむしろ逆)。途中では科学的議論や神学論争のパロディを思わせ、最後には、全能で以て我々の全てを「取得」はするが理解はしない存在・呼んでも応えない(もしかしたらグノーシス的な?)神のありさまを提示する物語と思えてくる。結末の、ケルヴィンと海との対話(?)の場面は、人間がここで出来ることを端的に書き切った感じでイメージも鮮やか、なんとなく感動的だった。


 どうでもいいことと思われるでしょうが、この本の造本は背中が角張ったハードカヴァーで、「綴じ」がとにかく堅いの。紙質がしっかりしていることもあって、開いていようとすると力が要ってけっこう手が疲れる。もう少し開きやすい造本にしていただけると助かるんだけど。カヴァーや扉のデザインはすごく気に入りました。

*1:惑星ソラリス』とBWV639「イエスよ、私は主の名を呼ぶ」についてこのページにちょっと紹介してある。アルヴォ・ペルトの「断続する平行」との類似が指摘されているのを読んで、ちょうど私も同じようなことを感じていたのでちょっと驚き、嬉しかった。

*2:「愛」方面に感情移入する機能はそもそも搭載せず>私なので、ソダ版を観てもたぶん全然つまらないだろう