ラテン複雑系

伊藤公雄『光の帝国/迷宮の革命 - 鏡の中のイタリア』(青弓社) 読了。

 これがきっかけで読んでみることに。

  • 第1章:ダンヌンツィオ、マラパルテという2人の奇矯なファシストの評伝および、ファシズム下の映画政策を通して、イタリアファシズムの実像を描いている。ちなみにこの章と本全体のタイトルにも採られている「光」とは、当時のプロパガンダ映画制作会社「教育映画協会(L'Unione Cinematografica Educativa)」の頭文字をとった略称に由来している。
  • 第2章:1970年代イタリアをテロと弾圧の「鉛の時代」と化したテロ組織「赤い旅団」の盛衰史。そして多くの謎を残したとされる「モロ事件」の経緯と、エーコ薔薇の名前』にこめられたこの事件への暗示を分析している。
  • 第3章:イタリアの国民性に関わる大きな3つの特色(イタリア風合理主義・アッセンテイズモ・クリエンテリズモ)を取り上げる。他に、マフィアの成立事情、90〜92年の共産党の動きなど。

 目当てにしていたのは第2章の『薔薇の名前』関連の部分だが、他のセクションもそれぞれに面白かった。特にダンヌンツィオの生涯と、彼が晩年を過ごしその死後は博物館として公開されている建物(ヴィットリアーレ)を紹介した章が興味深かった。第一次大戦後、屈辱的な講和条件に怒って自ら数千人の兵を挙げ、1年以上にわたってフィウーメを占拠したという話に驚いた(デカダン詩人という先入観しかなかったので)。ヴィットリアーレの「霊廟」には、彼の棺を囲むようにして当時の同志・部下たちも眠っているという。三島由紀夫をちょっと大柄(体格のことではなく)にした感じですね。


 須賀敦子さんの著書に、彼女が若い頃に深く関わったミラノのコルシア書店が、(当初は左翼系とはいえ様々な人の出入りするゆるやかな集いの場であったのに)メンバーの入れ替わりと共にしだいに過激な方向へ傾いていったことが示唆されていた。そのような不穏な潮流の行き着いた先が、第2章で言われる「鉛の時代」だったということかな。長年ベルルスコーニを見慣れてしまったせいで、イタリアで左翼が隆盛だった時代というのが思い出しづらい(--;)。
 「モロ事件」は、当局が故意にモロ元首相を見殺しにしたような不可解な顛末。この事件に関するノンフィクション本も邦訳があるらしく、気になる(こうやってどんどん読むべき本が後回し後回しに・・・)。著者の言う“敵の敵は味方であるばかりか、味方のうちに敵がおり、敵のなかに味方がいるといった迷宮のようなイタリア政治の構造”は、第3章で説明されるクリエンテリズモ*1とも相まって、一見明快そうなこの国のほんとの顔はどこにあるのかしらと思わせられる。
 肝心の『薔薇の名前』との関わりでは、ドルチーノ派が「赤い旅団」を指し示しているということですが、もはや私の記憶のなかではユルスナールの『黒の過程』に出てきたミュンスターの再洗礼派とゴッチャになりつつあるような気が・・・スミマセン


 第3章の短いエッセイ「アッセンテイズモ - 働かないという闘争」というタイトルを見た瞬間、コレイイ(・∀・)!と思わずにはいられなかったが、著者注によればこのアッセンテイズモ=欠勤主義(!)も、“八〇年代なかばの、いわゆるイタリアの「第二の奇跡(急激な経済成長)」のなかで、急激に退潮してしまった”とのこと。つい先日の新聞記事で、スペインでもシエスタ(を前提としたダラダラした勤務、深夜に及ぶ生活時間)はもはや時代遅れで廃すべしという風潮が強まっているという話を読んだし、「ラテンの国に生まれれば良かった」という我が夢想も、とっくに時代からズレまくっていたんだなぁ・・・

*1:縁故主義:有力者による口利きその他の庇護、見返りとして被保護者からは選挙時の協力や忠誠を差し出すという、互恵的ではあるが非対等な、我が国にもありがちな濃〜い人間関係システム